気になるニュース 700
元旦の東京新聞は侮れない・・・
引用書き起こし開始。
---------------------------------------------------------
*新年企画「不屈の人」 窪川原発を止めた人・島岡幹夫さん
戦後70年。敗戦やベトナム戦争、福島原発事故など戦後史の節目で、常に問われてきたのはこの国の市民社会だった。個人に根ざした社会は成熟せず、いじめに端的な「長いものに巻かれる」精神はいまも支配的だ。しかし、孤立を恐れず、周囲に警鐘を鳴らし続けてきた人びともいた。きな臭さが一段と増す現在、そうした人びとの不屈の歩みから、大切な教訓を学びたいと思う。
◆高知・窪川原発を阻止
蛇行しながら静かに流れる四万十川の水面に、沈む夕日が反射する。「川底まで見える。きれいだろ」。島岡幹夫(76)が透き通った水を手ですくい上げた。
「この水のおかげで海で魚が捕れ、陸で作物が育つ。だから、原発に売り渡すわけにはいかんかった」
島岡が生まれ育った高知県窪川町(現四万十町)で原発誘致が持ち上がったのは1980年6月。当時の町長が誘致を表明した。
その18年前、島岡は母親を乳がんで亡くした。放射線治療の副作用に苦しむ母の姿がまぶたに焼き付いていた。8歳で経験した南海大地震(46年)の記憶もあった。「もし、原発が事故を起こしたら、放射能が川にも田んぼにも降り掛かり、故郷が壊れる」
誘致表明の数年前から、原発話は水面下で動いていた。島岡は農業の傍ら、自民党員として窪川町の広報責任者を務めていたため、そのことを知っていた。
その島岡が「保革の枠を超えて」と旗を掲げ、反対派を組織した。誘致表明直前の80年5月、共産党主催の集会で訴えた。ちなみに島岡は若い時に4年間、大阪府警に勤めていた。共産党のデモの警戒に当たったこともあったという。
その集会で、島岡は「町の有権者は1万3000人で原発反対の共産、社会、公明支援者は1000人ずつのみ。残りは自民だ。政党の理念で反対しても、数でたたきつぶされる」と訴えた。
誘致表明した町長の解職直接請求(リコール)運動に取り組んだ。自宅の牛舎の2階に畳を敷いて急造した「土佐黎明(れいめい)舎」と名付けられた広間が拠点だった。81年3月に賛成約52%、反対約48%の僅差で、リコールが成立。原発推進派の町長が解職された。
だが「勝った」という安心感が、島岡ら反対派の足をすくった。40日後の町長選では前町長が、原発立地は住民投票で決めると戦術を転換し、約54%を得票して返り咲いた。
「リコールが成立して少し気を抜いたら、ころっと負ける。力が抜けた」
ただ、83年の町議選(定数22)では、島岡も含めて反対派が10人当選。賛成派は12人いたが、それまで8割以上が賛成派だった町議会の構成を大きく変えた。
その後もせめぎ合いが続いた。右翼の街宣車も現れた。スーパーマーケット店員の男性(40)は「家庭内でも賛否が割れていた。まさに町が二分されていた」と当時を振り返る。
身の危険にさらされたこともあった。「町で急発進した車にひかれそうになった。電柱の陰に飛び込んだが左足をひかれ、いまも足が曲がったまま。演説中、賛成派の漁師に右脇腹を刺されたこともあった」。自宅には「おんしの家に火を付けるぞ」といった脅迫電話が毎晩かかってきた。
◆孤立20年超 「原発あっても町栄えぬ」
86年4月、チェルノブイリ原発事故が起きた。潮目が変わった。推進派は「日本であんな事故は起きない」と安全神話を持ち出したが、事故が報道されるにつれ、島岡の言葉に耳を傾ける人たちが増えた。
翌年12月、立地候補地に近い漁協が立地調査の実施を拒否。88年3月の町長選で、推進派の後継候補が敗れ、反対派が推す候補が初当選した。同年6月、町議会が「これ以上は原発の話をしない」という趣旨の終結宣言を全会一致で決議し、原発騒動は反対派の勝利で幕を下ろした。
ところが、島岡を待ち受けていたのは苦難だった。
「島岡は町政混乱の元凶じゃ」。周囲の目は冷たかった。「町中を歩いても、誰も話し掛けてくれない。町議として県庁へ要請に行っても、誰も取り合ってくれない。原発反対で一番目立っていたのは俺だから、風当たりがきつかった。村八分。犯罪者扱いだ」
時間の経過とともに、反対派の仲間からさえ、「原発があった方がよかったんじゃないか。ほかの町では建てているじゃないか」という声が漏れてきた。
「身近な人までもが半信半疑だったのかと思うと、やりきれなかった」
原発誘致の阻止後も町議を務め続けたが、原発騒動の終結を宣言した手前、反対論を町内で強調することははばかられた。原発反対への懐疑論が少しずつ広がっていく中で、声を上げることができなくなった。
「故郷を思って打ち込んできた10年以上の時間がばからしくもなったし、自分が間違っているんじゃないかと疑った時もあった」
だが、世論の転機は再び訪れる。11年3月の福島原発事故だ。これで窪川町民の島岡評は一変した。
「原発を止めてくれてありがとう」「おまんのおかげで高知は安心じゃ」「窪川のヒーローじゃ」と言われ、握手も求められた。
町民のタクシー運転手の男性(50)は「私は推進派だったけど、いまは原発がなくてありがたい。いま思えば、当時は後先考えずにやっていた」と話す。
島岡は「それまで俺を避けた人が、事故後は途端にニコニコ。その手のひらの返し方に戸惑った。生きている間に評価されるとは思わなかった。やっと分かってもらえたという気持ちの半面、何をいまさらという思いもあった」と言う。
とりわけ、「英雄扱い」には閉口した。「福島の悲劇はつらく悲しく、その土地の人を思うと心が痛む。俺はヒーローなんかじゃない。福島の人たちを救うことができなかった。むしろ情けなくなった」
町外での講演は、求めに応じて福島事故前から続けてきた。現在も月に1~2回、講演する。そこでは必ず「カネは一代、生命は永遠。原発があっても、町が栄えることはない。原発の危機と引き換えの補助金に頼って生きるより、豊かな自然を子孫に」と語る。
その思いは現在、地元での子どもたちとの活動にも反映されている。
昨年末、島岡は地元の小学校近くにある林で、児童らと一緒にアジサイの苗木を植えた。「この活動も、原発反対と根は一緒だ」
最近は地元の子どもたちでも、林の中に入ることは少ないという。「これじゃあ、自然を通して地元を愛する気持ちは生まれてこない。郷土愛がないと、また原発に故郷を売ろうという連中が出てしまう」
子どもたちが土いじりに悪戦苦闘する姿を目の前にして、島岡はこうつぶやいた。「故郷を愛する気持ちが連綿と続くように若い世代に教えていかんと。そのためには、自然に触れあうことが一番じゃ」(白名正和、文中敬称略)
[デスクメモ]
「おめでとう」と言いにくい。総選挙後、特定秘密保護法による秘密指定が始まった。新たな戦前かもしれない。だから読者の皆さんにもお願いしたい。勇気を奮って、情報をどんどん提供してほしい。情報は権力の源泉なので、その暴露は権力を揺さぶる。「不屈」に学びつつ、今年もゲリラ戦に挑みたい。(牧)
2015年1月1日 東京新聞:こちら特報部
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015010102000134.html
« 気になるニュース 699 | トップページ | 気になるニュース 701 »
「ニュース」カテゴリの記事
- 気になるニュース 702(2017.03.11)
- 気になるニュース 701(2015.03.09)
- 気になるニュース 700(2015.01.02)
- 気になるニュース 699(2014.11.07)
- 気になるニュース 698(2014.11.07)