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2013年8月15日 (木)

気になるニュース 180

 

戦争を知らない人が戦争をしたがっている・・・
引用書き起こし開始。 

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*民を棄てる戦争を許さぬ 生き抜いた2人の証人 


敗戦から68年の夏を迎えている。安倍政権は、集団的自衛権の行使容認に突き進み、改憲にも前のめりだ。先の戦争は、結局、弱い人々を国が見捨てて終わったのではないか。幼いころ戦禍に巻き込まれ、その中から必死で生き抜いた2人の体験から、あらためて平和を守ることの大切さを考えたい。(林啓太) 


◆満州追われ家族離散 細田正年さん 「命失った避難者 思いはせて」 

「無力な開拓民は、誰にも守ってもらえずに命を落としていった。惨めな逃避行だった」 

細田正年さん(80)=東京都多摩市=は、敗戦時の旧満州(中国東北部)の混乱をこうふり返る。 

細田さんは1940(昭和15)年、一家で秋田県から旧満州に渡った。父母と5人のきょうだいは牡丹江省寧安県(現黒竜江省寧安市)の鏡泊湖の東岸に入植。「秋田漁農開拓団」の拠点があった。約20家族、計約60人の仲間とともに、田畑を開き稲や麦、大豆やモロコシを育てた。渡ってから2人の男女が生まれ、きょうだいは7人になった。 

455月、父正さん=当時(44)=が急性肺炎で死亡する。3カ月後の89日に旧ソ連軍の侵攻が始まった。だが、開拓団にその情報は知らされなかった。「大人たちが騒ぎだしたのは15日の玉音放送の後だった」。一家は、開拓団の仲間の数家族と一緒に集落の近くの小屋に身を隠した。 

1週間後、一家と仲間は北から逃れてきた数百人の避難民と合流。南の吉林省敦化県を目指して歩きだした。そこで汽車に乗る計画だった。 

細田さんは当時12歳。「毎日歩き続けるのはつらかったが、置いていかれてはたまらないと頑張った。途中でソ連軍の戦車などがひっきりなしに追い越して行った」 

敦化のパルプ製造会社の女性社員や家族らがソ連兵に集団暴行されたという情報が流れ、方針を変更。旧満州の首都・新京(現吉林省長春市)を目指した。ソ連兵を避け山道を進んだ。 

95日朝。銃声が激しく鳴った。中国人の地元民の襲撃だった。避難民はクモの子を散らすように駆けだした。「撃たれて倒れた人も踏み越えて逃げた。耳をかすめる銃弾の音が怖かった」。膝の深さの川を無我夢中で渡った。 

気付くと、母オヱサさん=当時(37)、長兄正一さん=同(17)、妹日出子ちゃん=同(3つ)とはぐれてしまっていた。静かになった後、一緒に逃げていた次兄正志さん(82)と襲撃現場に戻り、遺体を1体ずつ確認したが、母や兄妹の姿はなかった。 

生後10カ月の弟正治ちゃんは、妹ノフ子さん(77)がおぶっていた。だが、「乳飲み子をきょうだいで育てながら避難をするのは無理だ」と考え、泣く泣く地元の中国人に預けた。牡丹江市の病院に入院していた長姉フミさん=当時(19)も、行方不明になった。 

細田さんと正志さん、ノフ子さんの3人は10月ごろにやっと新京にたどり着いた。 

逃避行の途中で、旧満州の防衛に当たっていたはずの旧日本陸軍の部隊・関東軍に守られることはなかった。ソ連の侵攻で壊滅状態となり、さっさと撤退していた。「関東軍の兵士は私たちのような子どもからも金を盗んだ」 

孤児となった3人は、新京でも飢えと寒さに苦しめられた。住居が割り当てられたが、約10畳の部屋でほかの2家族と一緒に住んだ。 

野草を食べたり、中国人の商店から饅頭(まんとう)(中国の蒸しパン)を盗んだりして飢えをしのいだ。夜は正志さんが数枚の座布団をほどいて縫った布団に3人がくるまって寝た。 

細田さんは「大人たちは、子どもだからといって助けてはくれなかった。盗みをしなければ、生き残ることはできなかった」と振り返る。 

3人は11月、日本人の僧侶が新京で始めた孤児院に保護された。孤児院には170人もの子どもたちがいた。 

全員で帰国することになり、468月に日本の土を踏んだ。離ればなれになった母らの行方は分からない。正治ちゃんとも連絡がとれないままだ。「死んでいるかも、生きているかも分からない」 

細田さんは戦後、海上自衛隊に入隊。約15年間勤務した。「自分が体験したような悲劇が起きた時に、国民を守る自衛隊員になりたかった」と話す。それは、関東軍に対する怒りでもあった。「苦しむ避難民を守る軍隊だったとはとても言えなかった」。大手電機メーカーに転職し、定年まで勤めた。 

福島原発事故後は、被災者に十分な補償をしない国や東京電力の対応が、関東軍に重なって見えるという。「被災者はかつての旧満州の避難民と同じように見捨てられようとしている。過ちを繰り返さないためにも、今こそ、命を落とした避難民の無念に思いをはせたい」 


◆原爆被爆者に寄り添う 本間美智子さん  福島被災者とも連帯「反核の声上げ続けたい」

「被爆者に被災者。国から見捨てられた人たちの連帯が、今ほど問われている時はない」

原爆被爆者を支援する運動をしている本間美智子さん(70)=東京都町田市=が強調する。

被爆者とともに歩む生き方には自身の生い立ちが深く関わっている。終戦の年、2歳で脊椎カリエスを発症。医師から余命は長くないと宣告された。背骨が結核菌に侵され身長が伸びず、肺活量も一般の成人の半分程度。子どものころはいじめを受け、つらい思いをした。「戦時中で十分な治療が受けられなかった。戦争がなければ高度な治療が受けられたかもしれない。戦争のせいで健康な自分を奪われた」との思いがある。

「子どもだった私には何の責任もないのに、自身の運命を選べなかった。それは被爆者も同じ。こんな思いをする人が出てくるのはもうごめんだ。大人のひとりとして子どもらの世代に同じ苦しみを味わわせないようにする責任がある」

1982年、家族5人で「反核家族宣言」。毎月6日にすいとんを食べて平和のありがたみをかみしめ、「すいとんのひ」と題した手書きの無料新聞を発行して平和や人権の大切さを訴えた。約150人が定期読者で今月中に最終号となる300号を出す。

88年、町田市に住む広島や長崎の被爆者ら約300人の活動を支える「町友会とともに生きる会」を結成。被爆者の体験談に耳を傾ける会を開くなどしてきた。

日本政府は4月の核拡散防止条約(NPT)の再検討会議の準備委員会で、核兵器の非人道性に関する声明に賛同しなかった。本間さんは「なぜ賛同できないのか。怒りと恥ずかしさで胸がいっぱいになる」と憤る。安倍政権が狙う改憲や集団的自衛権の行使容認も本間さんの目には「戦争の下準備」と映る。

本間さんが編集人を務める小冊子「ひばくのこころで」7号には、原発事故で福島から避難している首都圏の人々も手記を寄せた。

本間さんは訴える。「悲しみを抱えた民たちのささやかな抵抗は続いている。沈黙は未来を閉ざす。被爆者を二度と生まない決意で、反核の声をもっと上げていきたい」


[デスクメモ]
終戦時、日本人を襲撃した中国人もいたが、幼い子どもを預かってくれた中国人もいた。残留孤児問題につながったが、混乱の中、手を差し伸べてくれた中国人もいたということだ。関東軍よりもずっと頼りになったに違いない。今は日本と関係が最悪の中国と韓国。だが、人類の希望は失いたくない。(国)


2013815日 東京新聞:こちら特報部
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2013081502000164.html


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