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2013年7月12日 (金)

気になるニュース 142

 

Requiescat in Pace.
引用書き起こし開始。 

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*原発事故で指揮 吉田元所長死去 


東京電力福島第一原発事故発生時に収束作業の陣頭指揮をとった元所長の吉田昌郎(まさお)氏が9日、58歳で亡くなった。少数の作業員とともに死を覚悟して現場にとどまり、英雄扱いされる一方で、津波対策を怠った担当者でもあった。事故をめぐる多くの「なぜ?」について語ることなく世を去った。(加藤裕治) 


◆事故をめぐる吉田昌郎氏の発言 

「これから海水注入中断を指示するが、絶対に止めるな」 2011312日、本店から注入を待つよう言われて) 
「本店、本店、大変です、大変です。たぶん水蒸気だと思う。爆発が今起こりました」 314日、3号機の水素爆発を受けて) 
「ベント開ける操作してますんで、ディスターブ(邪魔)しないでください」 314日、本店からの指示に) 
「そういうものなしに、ただ水入れりゃいいと思ってたのかよ。爆発したら死んじゃうんだぜ」 316日、4号機使用済み燃料プールへの放水をめぐり) 
「最悪の事態」 42日、汚染水が海に流出していることに) 
「福島県民と国民にご迷惑をかけ、心よりおわび申し上げたい」 「1週間はもう死ぬだろうと思うことが数度あった」 「個人的に言えば、想定が甘かった部分がある」 1112日、記者団に) 


◆多くの なぜ もう聞けぬ 

20111112日、白い防護服姿で180センチを超える長身をややかがめ、吉田氏は報道陣の前に立った。事故後初めて福島第一原発が報道陣に公開された際、対策拠点がある免震重要棟で取材に応じたが、これが最初で最後になった。 

「皆さんに不便をかけおわびする」「死ぬだろうと思ったことが数度あった」。報道陣が具体的な事故発生時の事を質問すると、隣に立っていた細野豪志原発事故担当相=当時=が「(政府の)事故調の関係がある」と、答えを遮った。 

この時の会見はわずか15分。不満を持ちつつも、今後も取材の機会はあるはずと考え、その場は終わった。しかし、その3日後に吉田氏は食道がんの治療のために原発を離れ、入院した。 

事故の際、吉田氏は現場の先頭に立ち、苦境を理解しない東電本店や首相官邸と渡り合った。事故が悪化の一途をたどっても、約70人の作業員と現場に残り、収束作業に取り組んだ。この時のメンバーが「フクシマ50」と呼ばれ、世界的に英雄視された。現地で見た吉田氏からは、確かに「頼りがいのあるリーダー」の雰囲気が漂っていた。 


◆「横やり」なければ胸中明かした? 

免震重要棟の外は放射線量が高く、通信手段も限られ、思うように情報収集はできなかったとはいえ、政府事故調などの報告書を見ると、吉田氏は収束作業で重大な過ちも犯している。 

その一つは、事故発生当日、非常用の冷却装置が動いていると誤解したまま、1号機の対策に当たったとこと。動いているなら大量の水蒸気で分かるはずだが、作動訓練もしていなかったため、所員の誰も装置が実際に稼働した状態がどんなものかを知らなかった。長時間、冷却が止まったことで、その日のうちに核燃料が溶融し、翌日には建屋の水素爆発に至った。 

過酷事故が起きる可能性をどのくらい認識していたのか。なぜ炉心溶融が防げなかったのか。こうした疑問に答えるような記録は、東電が公開したテレビ会議映像には見あたらない。 

原発の津波対策でも吉田氏は鍵を握っていた。事故から3年前の08年、東電は想定以上の大津波が福島第一原発を襲う可能性があるとの試算を出していたが、この時、対策を検討する本店原子力設備管理部の部長が吉田氏だった。 

この時に対策を取っていれば、重大事故にまで発展しなかった可能性がある。東電の説明などでは、吉田氏と上司の武藤栄元副社長らが相談し、対策の見送りを決めたという。どんな話し合いがあったのか、もはや吉田氏から証言を得ることはできない。政府事故調は吉田氏から少なとも4回聴取したが、聴取記録は非公開のままだ。 

本紙は何度も吉田氏に取材を申し込んだが、応じなかった。「取材拒否」を決めたのが東電なのか吉田氏なのかは分からないが、免震重要棟で会った吉田氏は、横やりさえなければもっと話をしたそうに見えた。 

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2013712日 東京新聞朝刊 こちら特報部:ニュースの追跡より 

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